夏休みの旅行

8月のお盆の時期です。7月の猛暑とはうって変わって、8月に入ってから天気の悪い日が続いています。曇りや雨の日が多いので、日が直接当たって本当にきついという日は7月よりは断然少なくなりました。平日のランニングと週末の土日のランニングは続いていますが、天気の悪い日などはたまに走らない日もあります。小雨の時が多かったので、走る不便さはあまり感じませんでしたが、たまに大雨の日はカッパを着て走りました。

靴はランニングシューズではなく、休日なんかに履く動きやすい靴でこの半年以上ランニングしていましたので、靴の裏のくぼみは擦り減ってツルツルになっている状態です。これまでは400mぐらいしか走らず中距離を走る想定をしていなかったので、まだ本格的なランニングシューズを準備していませんでした。雨の日は地面が多少滑りやすくなっているので、特に下りは気をつけないといけません。

土日の1周5㎞コースのランニングは少しずつ慣れてきました。あのきつい5㎞コースに慣れてくると、平日の400mランニングはさぞかし余裕になるだろうと思っていましたが、そんなことはありません。400mでもしんどいものはしんどいのだと知りました。ただこれまでは400mで体力の限界に達していましたが、仮に目的場所の400mの地点に着いて、しんどく息があがっていたとしても、何か体の奥にエネルギーが残っていて、このまま走り続けろと言われれば、走り続けられそうなことが、これまでとの違いでしょうか。

1周5㎞のコース、起伏は大きいですが良いコースを見つけました。夕方の明るい内なら大通りで他のランナーを見かけることができますが、他のランナーは比較的大通りの起伏の少ないコースを走っています。私は一人で走りながら、こんな負荷のかかる良いコースがあるのにもったいない、もっと多くの人が利用していてもよいのに、少子高齢化が進んでいるのかな~、と思いました。

そういえば20年前、団塊ジュニアが成人してから、この辺りを通った時の住宅街の様子から、既にその頃から高齢化の兆しが感じられました。しかし、昔のランナーの数は知りませんが、大通り沿いに出れば、思ったよりランナーって多いな~と思いました。1度出だしにランナーを見かけましたが、早いというか力強そうなランナーでした。出だしの上り坂800mで後を追いかけましたが、半分ぐらい上った辺りで目の前から消えてしまいました。いつかまた出会ったら、同じペースで走れたら良いな~と思います。

お盆が終わった週明けから、北陸の芝政ワールドへ旅行に出かけました。私は元々車で遠出をするのは好きではありません。ランニングもこれまで好きではありませんでしたが、ランニングは趣味になってしまいました。どういう変わりようなのでしょうか(汗) 若い時は今と比べれば、何も気にせず運転していましたが、それでもあまり長い距離の運転はしませんでした。周りの友人知人の中には車が大好きという人をよく聞きます。そういう人なら九州だろうが北陸信州だろうがスイスイと車を動かして旅に出かけていると聞きます。

私は6月と7月に京都のるり渓へグランピングするのに車で行きましたが、この距離ぐらいまででしたら車で行きます。今回は北陸ですので京都より上です。京都より上といっても滋賀県の琵琶湖沿いを通ってその上の福井県の北の方になりますので、ほぼ石川県です。いつもの歴史ロマンに浸ってみたいと思います。昔の地名でいえば、京、近江(滋賀県)を通って、越前(福井県)の北の方で、ほぼ加賀(石川県)です。遠いですよね(汗) いえいえ、車好きな人なら難無く運転するでしょう。現に芝政ワールドの駐車場はけっこう車で来てる人は多かったです。

芝政ワールドはほぼ海岸線近くの広大な土地にあります。全体が芝生に囲まれた公園のような所です。近くには旅館やホテルがありませんので、最寄りの「あわら湯のまち」の旅館やホテルに泊まり、近くのバス停まで歩いて、そこからバスに乗って芝政ワールドへ行くのが定番ですが、車で来ていれば、旅館やホテルの駐車場から車に乗って直接芝政ワールドまで行けるわけです。私は大阪から電車に乗って行きました。2時間ほどボ~としてたら、あわら温泉駅に着きました。このボ~とできる時間が楽なのが電車旅の良いところかな~。 柿の葉寿司なんかをモグモグ食べながらボ~としていると着くわけですから、しかし、着いてからが荷物を持ってバスに乗って移動するのが少し面倒ですが。

電車で近江(滋賀県)と越前(福井県)の間の山あいの険しい伊吹山地を越えると、越前平野(福井平野)が急に開けてきて、綺麗で広大な田畑が広がっています。そこから西を向くと、山頂に雪の残った両白山地が見えます。この山々がとても険しくて美しい。大阪平野から雪山が見える景色は、真冬の年に1、2度くらいしか見る機会はありません。それも、その時は大阪の町も雪景色ですから、山に雪が積もるのは当たり前と言えば当たり前です。ここ福井平野は8月の真夏です。田園風景から見える山頂の雪景色は一時でも見るものの心を奪ってしまいます。それも綺麗で威厳のある山々は、越前(福井県)北部のあわら温泉駅まで約35㎞もの間、見ることができました。天気の良い日は東京から富士山を見ることができると言いますから、もしかして、福井平野から山々の50㎞先の白川郷にある白山や、130㎞先の飛騨山脈(通称は北アルプス)の、あの槍ヶ岳まで見えているのかもしれません。

後でタクシーの運転手さんの話では、その山々には、永平寺という宗祖道元が開いた曹洞宗の総本山があるとのことです。そして、近くには戦国時代かの有名な朝倉氏の居城「一乗谷城」があります。おぉ~、この山のちょっと奥に一乗谷があったのか~、越前平野を見下ろす山城から治めていたんだな~。

この一乗谷城は信長に攻め落とされ、1573年戦国大名としての朝倉氏滅亡後、柴田勝家は朝倉氏の山城と違って、1575年越前平野に北ノ庄城(福井城)の築城を開始しました。山城ではなく、水運や陸運に便利な平野に城と城下町を作る治め方は、のちの1583年この北ノ庄城(福井城)が秀吉に攻められ柴田勝家は滅亡しましたが、その秀吉は1583年の年に大阪平野の上町台地に大阪城の築城を始めています。

そう考えると、柴田勝家って8年も前の1575年には山城より、平野に城を築城することに気づいていたのだな~、いやいや、待てよ、秀吉は1573年に浅井朝倉滅亡の翌年の1574年に近江(滋賀県)の琵琶湖のほとりに、水運や陸運に便利な長浜城を築城し始めたから、やっぱり秀吉のほうが早いな~。いやいや、信長は用兵のうまさと経済的感覚の両方を兼ね備えていたでしょうから、すべて信長の命で事細かく城の場所や設計を指図されていたと考えるのが自然でしょう。

1567年斎藤龍興の山城の稲葉山城(岐阜城)が信長によって陥落してのち、岐阜城として改名し、山城として利用しているところを考えると、その頃はまだ山城の価値はあったのでしょうし、やっとの思いで落とした岐阜城は手放せなかったのでしょう。その6年後の1573年浅井の山城の小谷城、朝倉の山城の一乗谷城が陥落して以降は、山城は大軍に包囲され兵糧攻めにされたら落ちるということと、戦国末期は大軍を擁する有力大名が出てきたことで、山城形式は廃れていったのではないでしょうか。( 参考資料 : ウィキペディア 北ノ庄城  大阪城   岐阜城      長浜城歴史博物館  秀吉と長浜 )

夏休みの旅行で電車に乗って琵琶湖を北上し、福井平野へ入ったのは8月、信長と浅井朝倉との最終決戦も8月のことです。信長は3万の軍勢で8月8日に岐阜を出発、50㎞先の近江琵琶湖の標高約500mの山あいにある難攻不落の浅井の小谷城を包囲しました。500mといっても京都るり渓温泉のGRAXへグランピングしに行った時も標高約500mですからけっこう高いところです。

対する浅井は5000の軍勢で小谷城に籠城、朝倉は2万の軍勢で越前の一乗谷城から80㎞先の近江小谷城へ救援に駆け付け、小谷城の背後に布陣しました。信長3万vs浅井朝倉2万5000で良い勝負のはずです。10日から各陣地で小競り合いが始まりましたので、信長朝倉両軍共8日に本拠地を出発し、2日間で50㎞や80㎞を進軍して着陣したことを考えますと相当の速さで進軍したのではないかと想像できそうです。

12日信長は近江を襲った暴風雨に乗じて2つの砦を占拠、暴風雨の中、起伏のある上り下りの山道を駆け回ったと思いますが、最前線の足軽たちは、すごい走力があったのか、適度に休息しながら駆け登ったのかは想像できませんが、戦場なので死に物狂いで走っていたのではないでしょうか。スポーツシューズもない当時、負荷のかかる山あいを暴風雨のぬかるみの中、長時間草履などでどうやって走れたのかは想像できませんが、おそらく普段から草履などで走る訓練をして履き慣れもしているので、長時間走るのも大丈夫だったのかな~と思いました。

13日、援軍の朝倉2万は、昨日2つの砦が奪われたことを知ると撤退を開始。撤退を予測した信長は用意周到に追撃を開始し、翌日の14日まで徹底的に追撃しました。

朝倉は15日に越前一乗谷城へ逃げ帰りましたが、途中伊吹山地を通り抜け、3日かけて80㎞の道のりを移動したことになります。騎馬ならまだしも、足軽が山中を80㎞3日で移動することを考えると、1日27㎞近くは歩くか走らなければならない計算になります。東海道五十三次と言われる昔の江戸時代に整備された53の宿場の距離から考えると、おそらく昔の人は旅で1日8~24㎞ぐらいは歩いていたと想像できそうですが、朝倉は8日から15日までの8日間で本拠地から2日で80㎞進軍し3日山中で戦い3日かけて80㎞を撤退したことになります。8日間でなんとまあ疲労困憊したことでしょうか。( 参考資料 : ウィキペディア 東海道五十三次 )

仮に9㎞走って逃げるごとに水や食料を取り、風呂も入って十分休息がとれるならば、3回目で27㎞移動することができますが、これが、雨が降ったりする山中を着の身着のまま逃げていたりすると、猛暑の8月でなければ低体温症になるおそれはあるし、食料や水をとらないまま逃げていると脱水症状を引き起こしてしまって、完全に体力を消耗してしまいます。長い行軍で無理をして足も痛んでいたのではないでしょうか。ましてや、勝ち戦の信長は、騎馬隊を連れて先回りし、各要所や街道を完全に封鎖して検問していたのではないでしょうか。また、行く先々で落ち武者狩りに遭遇するおそれもあるので、負け戦の足軽にとって大変な逃避行であったことは間違いないでしょう。

結局15日に越前一乗谷城へ逃げ帰ることのできた朝倉の手勢は数百。信長は15日と16日の2日間、おそらく若狭湾の敦賀あたりで味方の軍勢に十分休息を取らせたと思われます。勝っている方は十分休息を取りながら行軍できるので、相手方よりさらに優勢になります。

信長は17日に出発し、20㎞の伊吹山地を越え、満を持して越前平野に布陣。18日一乗谷城の市街地を焼き払いました。20日山中を大野盆地へ逃亡中の朝倉氏は自刃。100年の栄華を築いた一乗谷朝倉氏は、8月8日から20日までの短い期間で、80㎞の距離を進軍し、80㎞の道のりを逃亡して滅亡したことになりました。

信長は返す刀を取って返して、6日後の26日には80㎞彼方の近江へ戻りましたが、5日かけて戻ったと計算すると1日16㎞の行軍なので、余裕のある凱旋行軍であったのではないでしょうか。その26日には浅井の小谷城を包囲、9月1日小谷城は陥落し、3代続いた北近江の浅井氏は滅亡。越前朝倉氏滅亡から幾日かもたたない間に、北近江浅井氏も滅亡したことになります。何年もかかった攻防が、この数十日で決着がついたことに驚きです。時勢という勢いには逆らえない何かがあるのかもしれません。

両陣営共、足軽は随分走らされたのではないでしょうか。そう考えると、現代人とは比べ物にならないくらいの走力があったのではないでしょうか。今の人は日々自転車や電車、車など使えます。昔の人より日常生活において走る機会は多くありませんので、スポーツでもしない限りそれなりの走力はつかないのだろうな~と思いました。( 参考資料 : ウィキペディア   一乗谷城の戦い  小谷城の戦い )

私はランニングをしていて、気づきましたが、心肺の適応力も大事ですけど、足の強さって本当に大事だと思います。戦国時代の足軽さんは、その名の通り足が軽くないとそもそも走れません。肝心の勝ち戦の時には必死で戦利品をかき集めたでしょうし、負け戦の時には必死で逃げだしたでしょう。行軍ぐらいで足を痛めてしまうと、その先、生きては行けないのでよっぽど足が丈夫だったのではないでしょうか。

そう考えると、1日数十㎞も走れる丈夫な足の持ち主にしか足軽は務まりませんから、貴重な存在だったのではないでしょうか。狭くて馬では立ち入ることのできない険しい山々を登って城攻めしたり、その険しい山々に木材や大石を運んで砦を作ったり、実際に要所や街道を封鎖して検問するのも足軽でしょうから、なくてはならない存在であったと思います。ですので、無暗矢鱈に足軽を消耗すると、一朝一夕に走力のある足軽さんは育ちませんので、軍勢として機能しなかったのではないでしょうか。騎馬は平野での合戦や、勝ち戦においての敗残兵を追う追撃戦、先回りしての要所や街道封鎖、負け戦においての逃亡には有効ですが、足軽の走力と土木工事なしに、騎馬だけでは機能しなかっただろうな~と思いました。

長距離を走ったり歩いたりすると、足が痛んだり、腫れ上がったりするものですから、騎馬に乗っている人たちも、お尻が相当腫れ上がり痛んでいたのではないでしょうか。馬に乗れて弓を射れる武者になるには、幼いころから練習しておかないとなかなかうまくなれませんから、そう考えると世界中がモングルの騎馬隊に敵わなかったのですから、騎馬隊が育つのも一朝一夕とはいかないということですね。足軽の走力は貴重といっても、騎馬隊を育てるより、足軽の走力は1年間ぐらい訓練を積んだらなんとかなりそうなので、手っ取り早く育成することができたのかもしれません。

まだ歴史ロマンの物語は続きます。本能寺の変の後、かの有名な秀吉の中国大返しは、今の岡山県の備中高松城から、明智光秀との戦いが行われる京都山崎の戦いの地の、わずか6㎞手前の大阪府の摂津富田に、1日休息を入れて丸7日で着陣したとのことです。この約200㎞の行軍を計算してみますと、平均すると1日28.5㎞の移動となります。連日の雨で川が増水する中での行軍となりました。

沼城から姫路城まで1日に70㎞移動した日もありましたが、それは騎馬での移動距離だと推測できます。足軽たちは後からぞろぞろとついてきたと想像できますが、それでも1日平均28.5㎞の行軍を7日続けて移動したことになります。1日7時間歩いたとしても時速4㎞ですので徒歩の速度ですが、鎧や武器を担いで、ぬかるんだ道を7日間行軍したと想像すると、相当きつかったのではないでしょうか。

「あの~、足軽大将さま、私、長い行軍で、足を痛めまして、残念ながら走ることができないのですが、どうしたらよろしいでしょうか」とか言える雰囲気あるのかな~(汗) おそらく岡山県の中国地方から戻ってきた足軽たちは、風邪をひくもの、足を痛めるものなどで体調は万全ではなく、相当疲れ果てていたと想像できそうです。そう考えると数の上では勝っていたとはいえ、山崎の戦いによく勝てたものです。そういえば秀吉は途中の姫路城で、備蓄米なんかを全部分け与えていたので、もしかして全軍にたいして「全軍に腹いっぱい喰わせろ~、7日分の兵糧を持たせるのじゃ~、既に備蓄米はなくなった~、もう籠城はないぞ~、生きるも死ぬもただ光秀を打ち破るのみじゃ~」と決死の覚悟で背水の陣をひいたので勝てたのかもしれません。( 参考資料 : ウィキペディア 中国大返し )

歴史ロマンから現代に戻りまして、長らく福井平野を走っていた電車は、あわら温泉駅に着きました。バスに乗って芝政ワールドへ行く道のりは綺麗な田園風景です。大きな山々からの流れ出る水の恵みでしょうか。この辺りのお米っておいしいんだろうな~と思っていると、芝政ワールドにつきました。

ほぼ全体が芝生の広場ですが、海が一望できるすばらしい眺めです。夏休みにプールで遊ぶのが目的でしたので、プール施設に入りました。大阪のほとんどの温泉施設やプール施設でもそうですが、着替えのロッカーはどこも狭苦しく、着替えるのに隣の人と押し合いへし合いし、汗だくになりながら一苦労して着替えるものですが、芝政では、ロッカーと着替える部屋が別になっており、着替える場所の広さといったら、すごい広さなので、一切ストレスを感じず、気分よく着替えることができます。

着替え終わったので、プールの広場へ行きました。とても広大なプール施設です。お目当ての滑り台、ザ・モンスターウイングや、ザ・モンスタースライダーに乗りましたがとても楽しめました。波の出るプール沿いにテントを張り、プールにつかりましたが北陸なので、プールの水は大阪で入るプールより冷たかったです。おそらく山々から流れ出る水の温度が冷たいので、その水道水を利用するプールの温度は、どうしても冷たいのではないでしょうか。それと7月の猛暑と比べると、今年8月は天候不順の日が多く、その日も曇りで8月下旬にもかかわらず気温が30度以上あがらなかったので、プールに入るとより寒く感じました。

夕方になり、十分遊んだのでバスに乗って旅館へ戻りました。久しぶりに旅館の和食料理を楽しみました。ビールと冷酒を飲んでお腹いっぱい食べました。良いな~、和食って、あかん、思い出すだけでよだれが出そう、お腹いっぱい食べることって良いことだな~と思いました。旅行から戻り体重を量ると、私の場合は72㎏から73.5㎏まで増えていました。まあいいか、また走れば良いし、と思いながら、旅行の荷物を取り出し洗濯をはじめました。

 

 

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